2013年4月3日水曜日

ありがとうございました

只今をもって、日本のアカデミアのありかたに対する問題提起としての48時間絶食を修了いたします。通常の仕事を続けながらの絶食は想像していたよりつらかったですが、Facebook などを通した皆様の温かいご声援のおかげでなんとかやり遂げることができました。
 この48時間、いろいろな事を考えることができました。ここで考えたことは、徐々に文章にまとめていこうと思います。
 まずは、ひとまず、皆様ありがとうございました。そして、いただきます。
2013年4月3日 午後3時 安野嘉晃

2013年4月1日月曜日

日本のアカデミアと人と人の話


 みなさんは、大学において実質的に期限付きでアカデミックな仕事をしている職員のことをご存知でしょうか。ポスドク(博士研究員)やテニュア・トラック教員がこれにあたります。私は、現状の日本のアカデミアにおけるこのようなポジションの教員・研究員の扱いには目に余るものがあると感じています。

 2000年代半ば、日本の大学は、日本のアカデミアの活性化を目指してテニュア・トラック制度というものを導入しました。これは、従来終身雇用であった大学教員に雇用期間を設け、ある期間後にその教員に終身雇用権(これをテニュアといいます)を与えるかどうかを審査する、というものでした。これは、実質的なアカデミアへの競争原理の導入です。私は、個人的に競争が好きです。尊敬できる相手と、信頼できる審判のもとで競争をすることは、自分も相手も高めてくれます。
 しかし、それは、あくまでもフェアなルールのもとでの話です。ルールのない無法地帯での競争は不毛な足の引っ張り合いでしかありません。しかし、大学における競争は、競争を主催する強者が、実質なんのルールもなく立場の弱いものを互いに競争させる、およそフェアプレーとはかけ離れたものになってしまいました。アカデミアにおける競争を無法地帯にせず、実りあるものにするための鍵は、雇用者である大学、そしてそれを運営するシニア教員が「競争とはなんなのか」を明確に意識し、「他人を競争されるとはどういうことなのか」ということを深く考え、そのことに責任を持つことであったのだと思います。
 あくまでも私個人の意見かもしれませんが、日本におけるアカデミックな競争がうまく働くことはありませんでした。実際に、ここ最近報道されることの多くなった日本のアカデミアからの学術成果の低迷がその結果を物語っています。
 表面に現れるデメリットは、この研究成果の低迷です。しかし、それと同時に、現場で不安定な立場でアンフェアな競争をしいられる教員や研究員は著しく疲弊しています。
 最初に書いたように、私は競争が好きです。尊敬できる相手と競争することは楽しくて仕方ありません。しかし、無意味に競争「させられる」ことは好きではありません。私は世の中の役に立つ仕事をするために競争をしています。決して、ニヤニヤ笑う観客を満足させるための研究者同士の殺しあいショーに出演しているつもりはありません。私が参加する競争の目的は、世の中を少しでも良くする技術を作ることです。
 もしあなたが、日本の大学において「競争をさせる」立場にあるのであれば、まず一度立ち止まって「なんのために競争をさせているのか」「競争をさせられれている人間がどのように感じているのか」「競争をさせられている人間が、あなたの事をどう思っているのか」を考えてみて下さい。我々はあなた方の奴隷ではありません。あなた方と人と人としての関係を望んでいます。
 もしあなたが日本の大学において競争することを強いられていていて、そして、それが「アンフェアなルールのもとに行われている」「競争する意味が見出が明確でない」、そもそも「自分たちを競争させている人たちが信頼出来ない」と思っているのであれば、ぜひ、声を上げてください。 私は、今の日本のアカデミアの無意味な残酷さと、無意識な無関心さに強く抗議するものです。私は、私の抗議の意志を、本日(201341日)午後3時より48時間の絶食を持って表明いたします。
 あなたがどのような立場でもかまいません。ただ、あなたがいま見ているものが、おかしいと思うのであれば、声を上げてください。私と同じように絶食を持って抗議の意志を示していただいてもかまいません。48時間が無理なら24時間でも12時間でも、一食抜くだけでもかまいません。なにもしなくてもかまいません。例えば、Twitter Facebook などで声を上げてください。あなたがもし大学で不安定な雇用を強いられている教員や研究員で、それがおかしいと思うのならば、あなたを競争させている人が信頼できないと感じてることがあるのならば、声を上げてください。あなたの氏名を名乗る必要はありません。もちろん、名乗っていただいてもかまいませんし、名前はなのらずに大学名だけでもかいまいません。まったくの匿名でもかいません。 #daigakuhunger というタグをつけてつぶやいて下さい。
 私は、人は善意で生きていると信じています。しかし、人の耳は、声を挙げない人の声を聞けるようにはできていませんし、人の善意は聞こえないものに涙できるとは限りません。 201341安野嘉晃

2012年8月15日水曜日

論文の書き方 Step-by-step

数年前から、自分自身では極力論文を書かずに、いかにスタッフ・
学生を直接の執筆者としてクオリティの高い論文を仕上げるか、という方法の構築に熱中していました。最近になって、ようやっとその手法をテキストにまとめることができました。

研究論文とはいったい何なのか
、という自分なりの議論から紐解いています。
Creative commons (自由に再配布可)で配布しますので、ご興味のあるかたはどうぞ


>> "A Card-Based Method for Scientific Paper Writing" by Yoshiaki Yasuno

※ このテキストの日本語版を作成していただける方を募集しています。ご興味のある方は安野までメールでご連絡ください。

2012年6月9日土曜日

縦糸と横糸の話: 工学と工業の関係


私は大学の工学部(正確には理国学群応用理工学類)で働いています。と、同時に、自分自身の大学人としてのキャリのかなり初期から、様々なメーカーの開発プロジェクトに参加してきました。私が大学にいて、そして、同時にメーカーとも一緒に働いてきたこの10年の間に、日本の工業をとりまく状況、特に世界の中での日本の工業の位置づけは大きく変わってしまった気がします。より明確に表現すると、日本の工業の世界的な存在感は、この10年、5年の間に急激に低下している、というのが私の感想です。

どうしてこのような状況になってしまったのか、それを考えているうちに、まず、大学の工学部の役割について考えるようになりました。そして、それを明確にするためには、工業と工学の関係、また、産業とアカデミアの関係について考えることは避けられないと感じるようになりました。そして、それらに答えを出すためには、まず、「いったい工学とはなんなのか」という根本的な問題、物事の定義の問題を強く意識する必要があると感じるようになりました。

大学で工学を教えていると、よく「その研究は応用的すぎて、わざわざ大学でやることではない(メーカーでやるべきことだ)」という意見や、「そこまで技術が完成しているのならば、いっそ起業してはどうですか?」という意見を聞くことがあります。このことが象徴するように、一般的には、大学の理学部・工学部、メーカーにおける研究・開発の関係は、「応用度」≒「実用化までの距離」という順に、次のように並んでいると考えられているように感じます。

理学部 → 工学部 → メーカー研究 → メーカー開発

しかし、本当にそうなのでしょうか。この「基礎から応用へ」と「アカデミアから産業へ」を対比するモデルは、本当に検証されたモデルなのでしょうか。私は、そのことそのものに疑問を感じるようになったのです。もし、社会の生産システム設計の根本となるモデルが間違っているとしたら、その社会が効率的に生産的になることはありません。

産業とアカデミアの関係、そして、社会における「工学という学問の位置づけ」、それらを明確にすることが、産業と教育を適切に結びつける鍵であり、そして、いつのまにかボタンを掛けちがってしまった今の日本の教育・産業を立て直す鍵なのではないかと思います。そして、それを理解するためのキーワードの一つが「工学」という言葉の定義なのではないかと思うのです。

現時点ではまだ中間的な思索の段階でしかありませんが、きょうはひとまず、ここまでの私の考えをまとめてみたいと思います。



まず最初に注目したいのは、「工学」と「工業」の違いです。とかくこの二者は混同されがちですが、実際には階層(次元)がまったく異なる概念なのではないかと考えています。実際に、日本語では近しい言葉が当てられている工学と工業ですが、英語では工学は Engineering Science、工業は Industry とまったく異なった言葉が当てられます。

同時に「工学」と「理学の」(Natural Science) に関してもその違いを意識してみましょう。 そうすると、いままで見えてこなかった社会システムのフレームワークが、少しですが、見えてきます。

まずは、工学と理学の違いについて考えてみたいと思います。一般に広く受け入れられている考え方に「より基礎的なものが理学であり、より応用的なものが工学である」というものがあります。そして、この考え方は、より単純化されて「理学の延長線上に工学がある」という「一直線上に2つの学問が前後してならんでいる」という概念で捉えられることが多いようです。(特に、工学と物理・化学のあいだではそのように考えられるのではないでしょうか。)

しかし、私はこの考え方が日本における「工学部」のありかたを誤らせたのそもそもの原因ではないかと考えています。(言い忘れましたが、私は今の日本の社会システムにおける工学部のあり方は最適ではないと考えています。工学部の大学人は無能であるとか、アメリカに負けているとかいうことではなく、日本の社会システム全体における工学部と大学理学部・産業・工業の相対的な位置関係が最適ではない、という意味です。)

もうすこし具体的な例で理学と工学の違いを見てみましょう。

例えば、電磁気学(物理学)と(古典的な)電気回路学(工学)を考えてみてください。
古典的な電気回路の考え方では、電流とはプラス極からマイナス極に流れる「仮想的な流れ」です。一方、電磁気学では、電流とはマイナス極からプラス極に流れる電子の流れです。電磁気学における電子とは「実在する」負の電荷を持った粒子です。一方、古典的な電気回路における電流とは、電気回路の振る舞いを記述し、制御するために便利な「仮想的な流れ」、つまり、概念です。
よく、高校の物理の授業などで「電流の正体は電子の流れである」と教えることがあります。これは、物理学(電磁気学)としては正解ですが、工学(電気回路学)としては必ずしも正しくありません。工学(電気回路学)における電流とは「正極から負極に流れているなにか」という概念そのものなのであり、その物理的な実態とは、本質的には無関係なのです。そして、その概念的・仮想的な電流という「なにか」の振る舞いを記述・制御するためにオームの法則やファン・テプナンの定理など様々なルールがつくられました。
つまり、工学である古典電気回路学は、まず概念として「電流」を定義し、その振舞を理解・制御するためのフレームワークを構築することで発達してきた、と考えることができます。ここでは、「電流が実際何なのか」を知る必要はありませんし、そもそも「電流」が実在する物理現象である必要もありません。(なにより、この電流と電子の流れという例では、これらの流れる方向が逆、という段階で世紀の大間違いです。)

このような例は光学においても見られます。物理(光物理)では「光」はフォトンという粒子であり、同時に波でもあります。一方、この「光」と混同されがちなものとして「光線」というものがあります。これらは、日本語で書くと非常に似た言葉になりますが、英語では light(光)とray(光線)と、まったく異なった概念であることがわかります。「光線」とは、工学の一つである古典的な光学における概念であり、アイコナール方程式と呼ばれる微分方程式の解という数学的な概念でしかありません。この光線は定義からして光とは異なったものですが、光という物理的な存在によって起こる現象の多くは光線という概念で非常にうまく説明でき、また、利用することができます(註1)。

このように見ていくと、工学とは「背景にある原理(たとえば物理的・化学的原理)とは無関係に、ある現象を統一した概念で記述し、それによって、その現象を制御・利用することを可能たらしめる理論体系」である、といえるのではないかと思います。さらに、ここでいう「ある現象」とは、必ずしも物理的・化学的な現象だけではありません。人の作った機械装置の振舞、人の集団の振舞、さらにはお金の流れなども含まれます。そして、この対象とする現象によって「システム工学」、「社会工学」、「金融工学」などの名前がつくのではないでしょうか。このように様々な細分野のある工学ですが、それらすべてにおいて、本質は、対象を体系化された手法で記述・制御することではないかと思います。

それに対し、理学とは(たとえば)物理的・化学的な現象のメカニズムを「解明」することを本質とした学問です。このように考えると理学とは「実在する事象(物理現象など)を対象相とする学問である」のに対し、工学とは「対象を限定せず、さまざまな対象を記述・制御する『概念と方法』を作りだし、その体系化を試みる学問」といえるのではないでしょうか。こう考えると、いわば、理学が縦糸の学問であるのに対して、工学は横糸の学問、ということになります。

そして、工学という横糸と理学という縦糸で作られた面の一つが「工業」ではないでしょうか。仮に、工学と理学それぞれを世界を作る1次元的な要素であると考えましょう。そして、それらはさらに「互いに直行する1次元的な要素」ということになるのではないかと思います。そして、「工業」とは、それらによって作られる2次元的な概念ということではないでしょうか。

このように考えると、今の大学が(そしておそらく社会全体が)暗黙のうちに定義している「理学の応用度をあげていくと工学」という考え方では、所詮工学は「応用的な理学」にしかならず、それはやはり、縦糸でしかありません。縦糸だけをどれだけあつめても、縦糸同士がつながらず面として工業は発達しないことになります。(次元の例えで言えば、互いに平行な1次元である理学と(今日の大学の定義する)工学では、2次元の概念である工業を規定することはできません。平行な直線二本では、面は定義できないのです。

そして、これがまさに、日本の工業力の低下の遠因ではないかと考えています。

このように考えていくと、「工学」が行うべきことも自然と見えてくることになります。工学の役割、それは「方法を体系化していく」ということです。大学という組織の目的を加味してさらにいえば「大学工学部の役割は、「方法」を理論体系化して容易に再利用可能にする」ことではないかと考えています。そして、教育機関としての工学部の役割は、その理論体系を利用できる人材を育成する、ということになるのではないでしょうか。

余談ですが、私は、大学の工学部の教員であるにもかかわらず、技術戦略やグループ運営、マネージメントに関する意見を求められることや、それに関する講演を頼まれることがあります。そのような話をした後、よく、「どこでそういうことを勉強したんですか」と聞かれることがあります。ただ、私の感覚では「物を作る方法論(つまり工学)を突き詰めて考えていたら、戦略も、運営も、マネージメントも見えてきた」という気がします。実際、私自身、OCT装置の構成を検討する際、画像処理アルゴリズムを作る際、プロジェクト管理をする際など、あらゆる場面でほとんど同じものの考え方をします。

たとえば、光断層装置の制御の際に「ガルバノミラー(電圧可動ミラー)にかける電圧の高周波成分を予めフィルターで除去することで、機械的な共振ノイズを減少させる」ことがあります。一方、プロジェクトの進捗管理の際に、技術スタッフに対して「新たに技術課題(問題)を見つけても、すぐに手を付けずに、は一旦週一回の定例ミーティングで検討してから、対応するかどうかを決定する」というポリシー設定することがあります。これらはどちらも「装置(組織)の構成要素(ガルバノミラー・人)の対応できない速さで変化する状況(ノイズ・技術課題)に対しては、わざと反応速度を遅くすることで、無意味な行ったり来たりを回避する」という、まったく同じ方法論から得られる結論です。そして、この体系化された方法論の集合が「工学」という学問なのではないかと考えています。

物を作る、ということは、一見応用度が高く専門化された狭い分野に見えます。しかし、一つの目的のために収束し、先鋭化された理論は、その後より広くあらゆる分野に応用がききます。工学者としてこれを表現するならば次のようになるのです。

光には、一旦空間的に収束すると、それによって、その後の進行方向が発散する、という本質的な不確定性があります。同様に、ある信号は自体が強く局在すればするほどそのスペクトルは広がります。仏教的な世界観では、自分自身の中の小さな世界は、その小さな極限において、広大な世界そのものとつながっていきます。それらと同じように、ある分野に先鋭化された方法論は、すべての分野に適応可能になると、考えています。


[註1] これらの電流と電子の流れの例、光線と光の例では、実際には物理現象でる「電子」や「光」と概念である「電流」や「光線」を厳密に結びつけることが可能です。例えば、電流は単位時間にある面を通過した電子の個数(電荷量)ですし、光線は波長無限小の光の振る舞い、です。ただし、今回の議論では、電流や光線の概念が、これらの物理的に正確な描写とは異なった動機で作られたことにが重要になります。

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2011年12月29日木曜日

ゲームの外のゲーム:弱者の戦略としてのゲームの解除


「クリアできそうでできないゲームと
     クリア不可能にみえて可能なゲーム
        どちらが良いゲームかは言うまでもないだろう」
                       押井守監督・伊藤和典脚本「AVALON

 生きていく上での様々な出来事はゲームに例えて考えることができます。そしてみなさんはそのゲームのプレーヤーであり、プレーヤーの目的はゲームに勝利すること、ということになります。努力に努力を重ねて社会的に高いステータスを得ることも、そういうゲームにおける勝利でしょうし、仕事の中である契約を自分たちに有利な条件で締結することも交渉というゲームにおける勝利でしょう。また、電車に乗るときに隅っこの席(私のお気に入りです)に座る、というのも、そういう小さなゲームにおける勝利条件の一つでしょう。

 ゲームの中には通常さまざまなプレーヤーが存在します。なにより、複数のプレーヤーが存在しなければゲーム自体成立しません。そして、複数のプレーヤーが存在すれば、その間には強者と弱者が生まれます。この強者と弱者はどのように決まるのでしょうか。

 一つにはプレーヤー自身の能力によって決まります。実は私がこのあと議論したいのはシステムとしてのゲームとその目的です。その視点から見た場合、プレーヤー自信の能力は個別のプレーヤーに付随する不確定要素ですから、ここでは議論の対象からは外します。また、いずれにせよ、ゲームに十分に多くのプレーヤーが参加すれば、プレーヤーの能力は統計的な分布として捉えられますから、個別に議論する必要は少ないでしょう。

 プレーヤー自身の能力の他に、ゲーム内の弱者と強者を決定する要因、それは「ルール」です。言うまでもなく、ゲームはルールの下に展開されます。ルールのないゲームはもはやゲームではないですからね。ただ、そのルールは常に公平とは限りません。たとえば、双六は明らかに先手有利ですし、よりプレーヤーの能力が重視されるチェスですら白(先手)の勝率は52-56% 50%よりも大きいという統計があります[1]。このように統計的に明らかになるようなゲーム内での強者と弱者を決定するルールの要因を「ルールの非対称性」と呼ぶことにしましょう。

 上のチェスの例でもわかるように、一見公平に見えるゲームのルールにも無視できない非対称性が存在します。まして、より複雑なルールのもとで展開されている現実社会というゲームのルールには非常に多くの、そして非常に強い非対称性が存在します。例えば、親の収入と子どもの学歴の関係なども社会自体のルールの非対称性の一つでしょう。つまり、マクロな視点で議論した際に、社会全体を含めたゲームシステムの強者を決定しているのはそのゲームを支配するルールの非対称性である、と考えることができると思います。

 社会全体をゲームだと考えた時、このルールの非対称性は時に「不平等・不公平」と表現されることがあります。この言葉は非常にわかりやすいのですが、同時にネガティブな印象がありますね。本当にルールの非対称性はネガティブなものなのでしょうか。それを決めるのは、その非対称性も含んだルールが「ゲームの目的」に対し合目的的であるかどうか、ではないでしょうか。

 さて、ここで新たな言葉を使いました。「ゲームの目的」です。一見するとゲームの目的とは勝利することであると考えがちですが、そうではありません。この文章の最初を読みなおしてみてください。勝利はゲームの目的ではなく、プレーヤーの目的です。ゲーム、特に社会的に行われているゲームには何らかの目的があるはずです。ゲームの目的という言い方が抽象的にすぎるというのであれば、ゲームの主催者、仮にゲームマスターと呼びましょう、の目的といってもいいのかもしれません。

例えば、ハイエク型新自由主義社会というルールのもとで展開されるゲームでは個人の能力を重視し、個人同士をガチで競争させることで社会・経済の発展が期待されます。そして、この社会・経済の発展、がゲームマスター(たとえば政府)の期待するゲームの目的ということになります。つまり、ゲームマスターの視点で議論するならば、ルールの良否を決めるのは、「そのルールの下でプレーヤーたちによって行われるゲームによって生起する結果が、ゲームマスターの希望と一致しているかどうか」になります。ルール自体が対称か非対称かは直接的にゲームの良否を決める要素ではありません。それでは、ルールの非対称性は無視していいものなのでしょうか。

このことを考えるために、ここまで出てきた登場人物とその強弱関係を整理してみましょう。ここまでの主な登場人物は、プレーヤーとゲームマスターです。この二者の強弱関係は言うまでもなく「ゲームマスター プレーヤー」です。そしてプレーヤーの中には能力によって決定される弱者・強者とルールの非対称性によって決定される弱者と強者が存在ます。ここでは、能力による強弱はルールの非対称性による強弱と必ずしも相関がないと仮定します。ここまで出てきた登場人物の力関係は次のようになります: ゲームマスター 強い立場のプレーヤー 弱い立場のプレーヤー。ここで、立場の強いプレーヤの中には能力的に強いプレーヤーと弱いプレーヤー両方が含まれ、立場の弱いプレーヤーにもその双方が含まれることに注意してください。
さた、この登場人物の強弱関係を理解した上で、一歩引いて俯瞰的に全体の状態を考えてみましょう。

実は、ここまでの議論はすべて、プレーヤーが既にゲームにエントリーしている、もしくは必ずエントリーすることを前提として議論されていました。この状況下において絶対的に強い立場にいるのはゲームマスターです。そしてゲームマスターはゲームのルールを作成し、ゲームの目的、つまりは自らの目的を達成します。

しかし、現実にはプレーヤーは必ずしもゲームにエントリーしなくてもいいわけです。もしプレーヤーが誰もゲームに参加しないとしたらどうでしょう。また、そこまででなくても、すべてのプレーヤーがルール上強い立場のプレーヤーとしてプレーすることを希望して譲らなかったとしたらどうでしょう。この場合ゲーム自体が成立しません。そして、ゲーム自体が成立しない以上、ゲームの目的ももちろん達成されないことになります。

それでは、どのような時にプレーヤーはゲームに参加しないのでしょうか。それは、ルールの非対称性がプレーヤーにとって許容出来る範囲を超えている時です。だれしも、あまりにも不公平なルールのもとではゲームに参加したくないものです。そして、プレーヤーがゲームに参加しない以上、上述のゲームマスターはすでにゲームマスターではなく、プレーヤーもプレーヤーではありません。つまり、この状況下においてはゲームマスター、強いプレーヤー、弱いプレーヤーの間の優位・劣位の関係は解除されていることになります。

ここまでの議論を整理してみましょう。この議論では、まず、社会で発生する事象をゲームとのアナロジーで考えてきました。その上で、社会の不平等に対応するルールの非対称性という考えを導入しました。そして、その非対称性の是非を考えるためにゲームの目的、つまりは社会の目的、という概念を導入しました。この議論の中では、ゲームを行うことの目的を「ゲーム自体の目的達成」と仮定しました。そして、上記の議論から類推されることは、強すぎるルールの非対称性はゲーム自体の目的達成を阻害するということです。

上記の議論からはもうひとつ興味深いことがわかります。それは(1)ゲームが不成立になった時点で、上述の三者の立場上の優劣が解消される、(2) そして、最弱者である弱い立場のプレーヤーは不参加という手段でゲームを不成立にすることが可能である、ということです。この考え方は、社会的な抗議活動であるボイコットやストライキの論理的側面の一つと考えることもできるのではないかと思います。

つまり、弱い立場のプレーヤーはゲームへの参加を拒否することにより、もともとの強者であった強い立場のプレーヤーやゲームマスターと対等な立場になります。そして、もし、ゲームマスターにどうしてもゲームの目的を達成しなければならない事情があるとすれば、ゲームマスターはなんらかの方法でこの事態に対処する必要があります。このゲームマスターのアクションは既に当初のゲームの中で行われているわけではありません。プレーヤーの参加拒否によって出現したこの状況は「プレーヤーがゲームマスターに対して新たなルールのもとでゲームを仕掛け、ゲームマスターはその新たなゲームに参加を余儀なくされている」と考えられるのではないでしょうか。

最後に具体的な例を考えてみましょう。若者の就労問題です。ご存知のように、最近、若者の就労率の低下が問題になっていますね。そして、政府はそれを上げるために躍起になっています。確かに、今の私の立場から見ていても、近年の若者は社会の不条理を押し付けられているように感じますし、いわゆるニートと揶揄される場合のように「だったら俺もう働かねぇ」と考えることも理解できます。そして、世間ではこの問題への対応を社会的弱者の対策という視点で捉えています。しかし、本当にこの視点で適切なのでしょうか。働こうとしない、そこまでではなくとも、社会を良くするために身を粉にしてまで働こうとしない人間には、そう思うようになったそれなりの理由があるはずです。そして、それは社会のルールの非対称性ではないか、と思うのです。つまり、彼らは「このゲームには乗らない」と宣言したということではないでしょうか。そして、弱い立場でプレーを強いられるプレーヤーが唯一ゲームマスターと対等な戦いを仕掛けられる戦法がこの「ゲームの不成立化」です。そして、上で議論したように、この状況は、ゲームマスターである政府や社会そのもの、もしくは強い立場のプレーヤーである社会的な強者が立場の弱いプレーヤーの戦術によりゲームの成立を解除され、新たなルールによってゲームを仕掛けられている、と考える必要があるのではないかと思います。

ゲームマスターの仕事はゲームを成立させることによりゲームの目的を達成することです。私はここで社会の倫理的な側面を議論するつもりはありません。私自身はエンジニアですので、社会まで含めた大きな意味でのシステムが動くかどうか、に興味があります。今日本で起きていることは、社会というゲームを支配しているルールの非対称性が大きすぎ、そのことがゲームの成立そのものを阻害している、ということではないでしょうか。この動かないシステムをもう一度動かすには、まずはより対称なルールを作成しプレーヤーを集め、ゲーム自体を成立させる必要があります。

私は平等主義者ではありません。ですので、ルールが公平であること自体に意味があるとは思いません。ルールの良し悪しは、それによって支配されるゲームが、ゲームの目的を達しうるかどうかで評価されるべきだと思います。そして、プレーヤーに興味をもたせあるゲームに参加させるようなルールを作っていくことは、それ自体がより上位のゲームなのではないでしょうか。そして、その上位のゲームの中では下位のゲームのゲームマスターも下位のゲームのプレーヤーと同じ立場の一プレーヤーであることを認識する必要があるのではないかと思います。


「クリアを拒むプログラムは 既にゲームとは言えないもの」
                                                           押井守監督・伊藤和典脚本「AVALON

追記

誤解を避けるために追記しますが、ここで私が議論したのは公平配分型社会と傾斜配分型社会という社会システム自体の是非ではありません。十分に対称なルールと考えていい野球にもコールドゲームが成立することがあります。ルールの対称性、非対称性にかかわらず、公平配分型社会傾斜配分型社会の双方が成立しうると思います。しかし、その是非はまず、ゲーム、すなわち社会そのものが成立した上での議論だと考えています。つまり、結果が傾斜配分的になるにしろ、そのプロセスを成立させるためにはある程度対称なルールが必要なのではないかと考えるのです。

最近数ヶ月、個人的に様々なことを深く考える機会に恵まれました。それに伴い、実に数年ぶりに技術以外の文章を公表しようと考えました。本当は本稿では、さらに一歩進んで強い立場のプレーヤーがそのままゲームマスターとして振る舞った場合に関する論考も行おうと考えていたのですが、その前段階の論考で 4,000 字を越えてしまいました。あまり長くても読んでいる方も飽きてしまうでしょうから、こちらの各論は稿を改めて議論したいと思います。

Reference