2007年5月8日火曜日

民主主義と選挙と多数決の話

僕のいた小学校では、生徒たちの間で意見が分かれると、ほとんどのことを多数決で決めました。今はどうかわからないですけど、少なくとも、僕がランドセルしょって毎日大声で歌を歌いながら通っていた頃はそうでした。たぶん、あれは民主主義教育の一環なんだと思います。で、子供心に「ああ、これが公平に物事を決めるということか」と思っていました。でも同時に、なぜか少数意見をもつことが多かった僕は「公平に決めるってのは、不公平なもんだなあ」と思っていました。だって、どんなに多数決をやっても、自分の意見が通ることなんて全然ないのです。少数意見ですから。ひたすら毎回がまんの日々です。

確かに、多数決をとって多数意見を採用するってのは一見公平です。でも、ここで言う公平というのは「常に多数意見を持っている人は10回中10回意見が通って、常に少数意見を持っている人は10回中10回我慢する」という公平です。あ、いや、別に多数決が不公平だと言っているわけではないのです。実際、ある時は少数意見を持っていた人が、別の議題では多数意見を持つこともあるわけですから。僕が言いたいのは、多数決が「唯一の公平さ」ではないのではないか、ということです。たとえば「多数意見を持っている人も少数意見を持っている人も10回中5回ずつ『公平』に我慢する」というような公平さというのも、あると思うのです。

少し話がかわります。僕の働いている大学ではいろんな事を内部の選挙で決めます。学長を決める選挙、研究科長を決める選挙、専攻長を決める選挙。それぞれ、選挙管理委員が選出され、被選挙人名簿が作成され、必要に応じて立候補が届け出られます。別に選挙事務所が出来るわけでもなく、ポスターが貼られるわけでもなく、街頭演説をするわけでもありませんが、規定に基づいた「選挙のプロセス」が実行された後、最終的には組織の構成メンバーによる投票で当選者が決まります。それは大学運営の民主制という観点から一定の意味のある行為だと思います。

でも、やっぱりここでも僕は「選挙以外にも民主的な方法はあるんじゃないかなあ」と思ったりもします。もちろん、選挙に反対してるわけではないですよ。でも、特に少人数の組織であれば、きちんと話し合うことで選挙にたよらず民主的な決定はできるんじゃないかなあ、とも思いますし、逆に、選挙だって形だけで実行してしまえば非民主的になることもあるんじゃないかなあ、と思うのです。

先日、統一地方選挙というのがありました。僕は仕事の規定上選挙活動に参加することは出来なかったのですが、知人のお父さんがある市議会選に出馬したため、比較的近くで選挙の様子を見聞する機会にめぐまれました。皆さん、「候補者側から見た選挙」というとどういう印象がありますか?僕は正直、具体的なイメージはありませんでした。選挙には誰でも立候補できるといっても、実際には選挙基盤を持ってる人間じゃないと選挙に出ても何も出来ないと思っていましたし、だったら結局、世襲世襲の「議員階級」という社会階級という人達の世界じゃないかと。漠然とそういう事を考えていました。

でも、近くで見た市議会選は違ったんですね。ビラを配るのも友人・知人、ポスター貼るのも友人・知人、選挙カー運転するのも友人・知人。全部手作りなのです。そして、そういう人達と話していると、それぞれが市の政治に対する意見があるんですね。具体的なものから漠然としたものまで、大域的視点から局所的な視点まで。そういうのを見ているうちに「ああ、これが民主主義なのかなあ」と思うようになりました。「投票」という多数決が、ではありません。「それぞれ少しずつ違った意見を持っている人たちが、いろいろな事を話し合って考えながら一緒に政治に介入していく」その過程が民主主義に見えたのです。

たぶん、今まで僕は勘違いしていたんですね。それは「選挙=多数決(投票)」という勘違いです。たしかに多数決・投票という行為は選挙を構成する重要な要素の一つです。でも、それは必ずしも選挙の本質ではないのだと思います。投票に至るまでの過程もすべて含めて選挙なんですね。つまり、選挙というのは多数決よりも上位の概念なわけです。言われてみると当たり前なんですが、なかなかそういう風に考える機会って、なかったんですね。

さらに考えていくと、実は「選挙=民主主義」というのも勘違いであることに気付きます。確かに、選挙は民主主義の実装の一つです。実際に選挙に参加することで人々は自分たちの意見を政治に反映させる権利を手に入れます。つまり、民主的というのは「人々が自分たちの意見を全体の意見に反映させられる状態」の事なのではないかなあ、と思います。そして、自分たちの意見を反映させられるのであれば、別にそれを実行する形は必ずしも「選挙」である必要はないのです。たとえば、仲間 3 人で昼飯を食いに行く時、何を食いに行くかで悩んだら話し合えばいいのです。選挙なんてしなくても、それで民主主義成立です。

たぶん、選挙というのは「大きな人数の組織で効率的に民主主義を実装するための手法」の一つなんですね。だから、やっぱり「選挙 = 民主主義」にはならないのです。民主主義は選挙の上位概念であって、民主主義を実行する方法は、他にもいろいろあるのです。

こうやって順番に考えていくと、民主主義と選挙と多数決の三者関係がはっきりしてきますね。つまり「民主主義 ∋ 選挙 ∋ 多数決」ということです。多数決(投票)は選挙の一部ではあるけれで、選挙の本質は多数決ではないし、選挙は多数決のみによって成り立つわけではありません。そして、選挙は民主的な運営の一つの方法ではありますが、選挙を行うことがすなわち民主主義というわけでもありません。こう書いてしまうと当たり前の結論なんですが、漠然ととらえていると、勘違いしやすいなあ、と思います。実際僕自身も、こういう風に考える前は、たまに見かける乱暴な多数決に対して、どうしてそれに違和感を感じるのか、はっきり説明できませんでした。(まあ、そういう多数決って、だいたいが「昼飯にカレー食うか、うどん食うか」というような、たわいのない話なのですが…)

たぶん、僕たちが一番気をつけないといけないのは、多数決や選挙を行うことで「自動的に民主的になっている」と思い込んでしまうことです。多数決や選挙はうまく使えばいろんなことを民主的に決められます。でも、その前に「本当にこれで民主的なのか?」「ほんとうにこれで公平なのか?」[1] と考えてみる必要があるのではないかと思います。必ずしも多数決=民主主義ではないのです。意外と多くのことは、きちんと全員で話し合うことで多数決にたよらず民主的に解決できるんじゃないかなあ、と、僕は思います。

Joschi

[1] 僕自身は「公平」ということ自体が、実はかなりあいまいなものだと思っています。それは「公平」という概念が特定の、しかも任意な、基準に基づいた相対的な概念でしかないと思うからです。

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