2007年5月13日日曜日

負けて嬉しい話

僕の働いている大学に MRI の研究をしている先生がいます。何年か前、MRI の基礎を作ったポール・ローターバーとピーター・マンスフィールドがノーベル賞をとった時、その人は自分のオフィスの扉に誇らしげにそのことが描かれた記事のコピーを張っていました。それが僕には理解できなかったのです。だって、もし自分が MRI の研究をしていたとしたら、その人たちは競争相手だったわけです。で、その競争相手がノーベル賞をとったら、僕だったら悔しいだろうなあと思うわけです。まあ、僕が人一倍負けん気が強いというのはありますが。だから、他人、しかも自分の競争相手が賞をとった記事を誇らしげに掲示しているその先生の気持が、やっぱりいまいち、わからなかったのです。


僕がいま従事している研究テーマには世界中にたくさんの競争相手がいます。負けると、それは悔しいです。いや、正確には「負けたと思うこと」が悔しいのかもしれません。だって、別に、誰かが勝ち負け決めるわけではないですから。自分たちのシステムの速度が競争相手より遅かった時、自分たちの作った装置の感度が競争相手より低かった時、自分たちの撮影した画像が競争相手のそれより汚かった時。やっぱり、「負けた」と思うのです。そして、悔しくなります。「次こそは負けたくない!」とか思うのです。こんにゃろー!とか思うのです。

そういう風にして競争を続けいていると、そのうち、競争相手を強く意識するようになります。強く強く意識すると、穴があくほど相手の一挙手一投足を見るようになります。相手が何をやっても気になるんですね。一応言っておくと、ほんとに相手の体の動きをみるわけではないですよ。相手の戦略とか、技術とか、ほんとにぎっちり観察します。相手の出した論文も穴があくほど読みます。また、これが悔しいのです。相手の書いたものを必死に読むことが。自分が負けてる事を真正面から認めてるようで。

そういう怨讐の生活を続けていると、なんだか変な気持になってくるんですね。全然関係ない第三者が、その競争相手のことをしたり顔で語ったりすると、なんか、腹が立つようになるのです。「お前にあいつの何がわかんだよ!」みたいな。多分、相手の書いたものを読み込んだり、相手のちょっとした発言について何日も何日も考えたり、そんなことをしているうちに、自分の生き方がそいつに影響を受け出しているんだと思います。そして、自分の生き方に影響を与える誰かがいるならば、それば、僕はその人を尊敬している、ということなのでしょう。本人には自覚はないんでしょうが。

そうなると今度は、関係ない誰かがそういう相手のことを悪く言うと、逆に腹が立ったりするわけです。自分だって関係ないのに。さらには、自分の人生のなかの大きな決断について、その競争相手に相談したりもするわけです。相手としてはいい迷惑でしょうが。


先日、イギリスのカーディフ大学の ヴォルフガング・ドレクスラー (Wolfgang Drexler)コーガン・アワード (Cogan Award) という賞を受賞しました。眼科学に貢献した40歳以下の研究者に贈られる、なんだかすごく名誉な賞です。このドレクスラー、僕から見ると、競争相手です。向こうは僕なんて眼中にないのでしょうが。何せ、僕たちなんて世界では全くの無名に等しいですから。

そんな競争相手のドレクスラー がそんなすごい賞を受賞しました(僕をさしおいて!)。そして、先日、その受賞記念講演が ARVO(アメリカの視覚眼科学会)の総会の中で、行われました。ドレクスラーが今までの彼の研究と、その中で彼が見てきたことを紹介し終わった時、会場の聴衆は席を立って拍手していました。僕も席を立って拍手していました。

拍手も静かになって、みんなが徐々に帰っていきました。僕はドレクスラーのところまで行って、おめでとうをいって、握手をして、それから帰りました。こんにゃろー!が賞をとったことが、僕は涙が出るほど嬉しかったのです。あんまり嬉しいので、彼の受賞記事、僕たちのオフィスの扉に張ろうかなあ、と、思うぐらいです。

Joschi

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